浄土宗の教学教化の興隆に資することを目的とした宗内組織。宗内の嗣講以上の学階所有者、または本宗教師にして教学院の趣旨に賛同する者を会員とする。
昭和19年(1944)4月、第二次大戦下に学術研究の断絶が必然であるのを危惧し、総合研究機関を創設して、その断層を埋めようとの意図から生まれた。初代院長は里見達雄。同22年、浄土宗の分裂をみたが、同院が開催していた学術発表の場である宗学大会のみは、教学大会と改名し仏教文化研究所と合同で開催された。なお、同院の発足に伴って附属機関として開設された教学院研究所(真野正順初代所長)は、平成元年(1989)に、教学院・布教・法式の三研究所を統合した形で浄土宗総合研究所が発足し、それにともない廃止された。
各種研究会はじめ、800年大遠忌を記念して平成23年(2011)からは教学院の研究成果を広く一般に公開することを目的とした公開講座を開催。学術雑誌として『仏教文化研究』(昭和26年、仏教文化研究所創刊)を刊行。また布教師会・法式教師会・総合研究所と合同で、浄土宗総合学術大会の開催、および『仏教論叢』の刊行を行っている。
順不同
浄土宗は勝れた学者を輩出し精緻な教学が発達してきましたが、従来、個々の学究に委ねられてきた点が多かったのです。学問の自由の立場という事も尊重すべきですが、大きく浄土宗としての見地から考究し、さらに宗学の伝統を深める一方、活力ある研究による基盤の強化を追求されねばなりません。同時に、直接間接に宗学を支える佛教や諸学問の興隆も併行して総合的に計られねばなりません。
研究費の問題、新進学徒の養成、宗全体としての学究と教育、教化等の諸問題等が恒常的に考えられていくべきであります。
以上のような事情から、浄土宗は執綱(現総長)を院長とする浄土宗教学院を発足し、付属機関として教学院研究所が設けられました。昭和18年5月に実質的には教学院研究所が出来、同19年4月1日(達示第八号)に浄土宗教学院が公的に活動を開始したのであります。同日午後1時から宗務所で最初の役員会が行われました。里見達雄教学院院長、椎尾弁匡顧問、真野正順研究所長、江藤澂英常任理事、大村桂巌、石橋誡道、前田聴瑞、長谷川良信、藤本了泰、恵谷隆戒の各理事、浄土宗関係役職者等が出席し、会員の銓衡、事業内容、予算、研究課題等が協議され、教学院の第一歩が踏み出されました。推薦の会員は嗣講(浄土宗の学問の位)69名でした。
これらの実質的な強力な推進役の初代研究所長真野正順博士の功績は忘れるわけにはいかないでしょう。博士は組織宗学の大成と、宗門、学界の協力による一体化を念願し、個人の興味本位の研究より共同研究によって大成される宗学を切望し、それのできる機関の設置を考慮していました。
時あたかも第二次大戦争中で、学人は戦場に赴き、学術の危機で、教学院、研究所の設立と後進の養成の要望は必然でありました。博士を中心に研究所を中心とした活動が翌19年の教学院出発の準備期間となったと言えましょう。
さて、その出発で、事業内容は原理、歴史、実践の三部門の研究部、月例研究会、古典研究会、懇話会等々でした。それらは空襲警報下も行われました。当時の学人の意欲と護教精神に敬意を表します。一方、京都では、望月信亨博士が望月佛教文化研究所(後に佛教文化研究所と改称)を、昭和17年に黒谷清心院に創設され、戦争、敗戦等の苦境を越えて運営され、知恩院、宗門の援護の下に発展しました。同研究所は、今日、教学院に発展、包括されています。前教学院時代とでもいえましょう。因みに教学院では年刊の学術論文集は『佛教文化研究』と言います。昭和21年に京都の教学院研究所が恵谷・前田両理事の尽力で開設され、東西呼応して教学院は充実してまいりました。昭和21年11月、京都の佛教専門学校(現佛教大学)で第一回浄土宗学大会が他の学界の先駆となる運営方法で行われ注目を集め、今日に継続しています。
教学院は平成7年9月から教学院規程が改定され新体制を強化しつつあるところです。